ガラスにまつわる思い出話 等など・・・
( SINCE 2009.07.07 ) 

2011.10.17    


ガラスにまつわる私の思い出や、フト思い出した昔話、可笑しかった話など、
時折、気の向くままに掲載していきたいと思います。

目  次

3〜4歳の頃(昭和26〜27年)の思い出

5〜6歳の頃(昭和28〜29年)の思い出

7〜12歳(小学生)の頃(昭和30年〜35年)の思い出

13〜15歳(中学生)の頃(昭和36〜38年)の思い出

16〜19歳(高校生〜)の頃(昭和39〜42年)の思い出

20〜23歳(大学生)の頃(昭和43〜46年)の頃の思い出

適当に思い出した事を掲載していきますので、思い出しただけでタイトルのみのものも有ります。
内容が追いついていないものは、暇を見ては埋めていきますので期待?してお待ち下さいm(__)m
 尚、内容につきましては私の思い出や多少あいまいな記憶・知識に基づいていますので、
間違っている部分もあるかも知れません。
又、記憶の整理などで、適宜内容を追加・修正する事があります。
 お気付きの点等がございましたら、メールでお知らせ下さい。

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3〜4歳の頃(昭和26〜27年)の思い出
    <3年保育で、1年目の幼稚園までは北野天満宮の近くに住んでいました。
    
 そのため、思い出の時期がはっきりとしています。>

初めてのガラス・・・ビー玉との出会い
家の近くに神具店があり、店には当然神棚や諸々の神具が並んではいましたが、
その他にも雑貨やちょっとした玩具?なんかが雑多に並んでいたように記憶しています。
戦後の復興期だったのでしょうか、活気があるというか雑然としていたというか・・・
その店先に、小さな私でも手が届くところに置かれていたブリキで出来た灯台のおもちゃ。
それが、記憶にある最初のガラスとの出会い、だと思います。
赤い三角屋根に白い筒状の本体で、その回りにらせん状のスロープが取り付けられていて、
灯台頂上の窓にビー玉を入れると、反対側に転がり出て、外側のスロープを勢い良く転がり落ちます。
ビー玉は塔を2〜3周して下部の穴に転がり込み、反対側の受け口にコロンと出てきます。
何とも単純で、素朴で、幼心には驚異的なおもちゃ!
おまけに、スロープはブリキをらせん状の溝に成形しているため円の内側が波々になり、
ビー玉が転がる時にガーッ・・・っと大きな音がします。
本体がブリキだから、響いてうるさい事うるさい事!!
買ってもらったように思いますが、どれほど遊んだのか、その後の記憶は今のところありません。

初めてのレンズと電球・・・幻灯機のおもちゃ
夜になると幻灯機を持ち出し、障子に映して遊びました。
と言っても、フィルムは2種類しかもってなかったようですが、雰囲気と匂いが気に入ってました。
濃緑のブリキの箱で、上部に電球のソケットがついた蓋があり、
前部には、レンズのはめ込まれた筒がついています。
箱の前の上下についたローラーにフィルムを巻きつけ、筒でフィルムを挟み、電球を点け、
筒の前のレンズを動かしてピントを合わせます。
電球は珍しく無いのですが、幻灯機に取り付け、焼けた匂いを発して輝くそれは別物でした。
点灯してから箱にセットしたようで、部屋中を照らしていた光が、箱の中にスッと納まり、
スクリーン(障子ですが)に飛び出してアニメ(内容ははっきり覚えていない<モノクロ>です)を映し出します。
レンズも不思議な感触で好きでした。
前から筒の中をのぞいたり(目には良くない)、結構お気に入りだったようで、
その後(何歳頃?)デパートで新しいフイルムを買ったもらおうと思いましたが、
フイルムも幻灯機も見つけることはありませんでした。

窓ガラス・・・存在感たっぷり
何処のお宅だったかは記憶にありませんが・・・・・
当時のガラスは、今のフロートガラスのように均一では無く、所どころ厚さが違ったり波打っていたり、
ぺしゃんこに間延びした泡が入っていたりしていました。
記憶には2ヶ所あり、一つは洋風の窓にはまった窓ガラスからの景色で、
も一つは、障子の中間にガラスの部分があり(上げ下げ出来る障子で閉じられる)、そこから見た中庭の景色です。
少しずつ場所をずらしながら見ると、景色がふわふわふわ・・・っと動きます。
ガラスを通して差し込む光も所どころ濃淡が出来ます。
何も無いかのように見せる今の窓ガラスと違い、ガラスと言う物を通して外を見ていると言う楽しさがありました。
窓ガラスの存在をはっきりと認め、そんな存在すら楽しむ事が出来たように思います。

幼稚園の思い出・・・キューピーさんのついた送迎バス、チンチン電車の教室、カルピスの看板
最初の幼稚園での思い出は余りありませんが、
バンザイをした大きなキューピーさんが正面に付いたマイクロバスが送迎してくれた事や、チンチン電車を改造した教室などを、
おぼろげながら覚えています。
母に付き添われた子供たちとバス待ちをしていたり、チンチン電車の教室で何やら工作をしたり、いじめられて泣いたり・・・
バス待ちの所にあった酒屋の、カルピスの看板をなぜか鮮明に覚えています。
ラッパ状のグラスが描かれ、黒い人がストローで飲んでいて、グラス内にクルクルとらせん状の渦が書かれています。
白黒のあの看板はもう見かけませんが、最近?あの形のグラスをCMで見かけるようになりました。

わんぱく坊主絶好調・・・今の子供に比べるとかなりハードな遊び!?
当時の住まいは、北野天満宮の近くで、途中には上七軒の花街がありました。
昼間(子供の時間帯)の上七軒には特に思い出はありません(当然夜にもありません)。
天神さんの境内は、大きな木もありで子供の格好の遊び場で、走り回っていたような気がします。
はっきり覚えているのは、隣の家で遊ばせてもらったり、家の前でチャンバラゴッコをした事ぐらいですが、
チャンバラゴッコは、何処から持ってきたのか身の丈より長い竹竿で、本気で殴り合っていましたね〜
おまけに、とどめにと履いていた下駄を脱いで、隣の寿司屋?のせがれの頭を殴ってしまい、
ねじり鉢巻の親父(普段から怖かった)に怒鳴り込まれた記憶があります。
私はどんな子だったんでしょうか? 人の頭を下駄で殴っちゃだめですね!。

せんべい布団事件・・・子供は何を言うやら
漫画か何かで、せんべい布団の事を知りました。
しかし、それは薄い布団のイメージしかなく、綿もろくに入っていない粗末な布団との意味まで理解してなかったようで・・・・
母と知り合いの家に行った時、たまたま夏蒲団を準備されていた様子を見た私は、
大声で「お母さん、これがせんべい布団やな〜」と言ってしまいました。
あの時の冷や汗は、半世紀以上たった今でも母はよく覚えているそうです。
私もよく覚えていると言う事は、かなり叱られたのかも・・・・・

戦後しばらくは覚せい剤が薬局で買えたそうです・・・『除倦覚醒剤 ヒロポン』です
幼い私には良く分からなかったですが、世の中にヒロポン中毒の人がいて本人も大変だけれど、
事件が起きたり、周囲の人たちも大変な目にあっているとの噂話を聞いた覚えがあります。
「ヒロポン」という名前が子供たちには面白く、悪ふざけで名前を言ってはしゃいでいたようにも思います。
何と、昭和25年頃までは薬局で売っていたようです。
戦争末期から戦後にかけての暗い時代に、憂鬱感・倦怠感を取り除く薬として乱売したのでしょうか?
そう言えば、特攻機で出撃する前に服用させ、気分をハイにして出撃させたとの話を聴いたこともあります。
いずれにしてもひどい時代ですね。
今思えば、特攻崩れと言って、特攻機で出撃する直前で敗戦になり精神のよりどころを無くした兵士が、
戦後色々と社会問題を起こして恐れられた時期が有ったようですが、覚醒剤の影響もあったのでしょうか。
なんとも空恐ろしい話です。

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5〜6歳の頃(昭和28〜29年)の思い出
    <3年保育の2〜3年目は、父が家を建てて植物園の東側、北山通り新町の近くに移り住みました。
    
 転居後の幼稚園時代の思い出となります。・・・・多少、小学校低学年の頃と混同しているかも・・・>

瑠璃(ルリ)と玻璃(ハリ)との出会い・・・ルンビニの花園でのお話
一般に、瑠璃(ルリ)は紺色をした宝石、玻璃(ハリ)は水晶やガラスのことを指します。
ルンビニの園は釈迦の生誕地で、ネパールに有り世界遺産になっています。
ところで、釈迦は、母(摩耶夫人)がお産のために実家に帰る途中、
アショーカの花が咲きにおい、金色の日の光に輝くルンビニ(藍毘尼)の花園で休息をとられた折、
サーラ樹に手をかけられた母の脇の下より誕生されたそうです。
釈迦は直ぐに七歩歩いて、右手で天を指し、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と言われた、
と伝えられています。
私は仏教系の幼稚園に通っていましたので、そこでのお説教や絵本で、
ルンビニ園は花盛り、瑠璃も玻璃も勝る事は出来ない・・・と言う様なお話が出てきました。
瑠璃を工房名にするのはその時から決められていた、とは思い込み過ぎですね・・・

父から聞いた戦争の話・・・余り語らなかったですが
父は開戦当初から敗戦、そして捕虜と数年間中国大陸の戦地にいたようです。
父の連隊はほぼ玉砕状態で、父も膝を銃弾が貫通する負傷を負いながら激戦の中を戦い抜いたようです。
かなりの惨状だったようで、帰還した戦友も少なく、それだけに多くは語らなかったのだと思います。

・膝を銃弾が貫通したときは、
 敵弾飛び交う下で、衛生兵がヨウドチンキに浸したガーゼを貫通した傷の穴に通して消毒したそうです。
 余りに痛そうで荒っぽい話ですが、よほど頑丈だったのか、それでも障害は残らず80過ぎまで足腰は丈夫でした。

・戦死者は敵弾に倒れた方だけではないのです。
 自殺・・・夜中に一発の銃声が響く、駆けつけると、歩哨に立っていた兵士が小銃(長い銃です)の銃口を喉にあて、
      足の親指で引き金を引いて倒れていました。
 過労・・・あるときは敵に追われ、炊き上がってもいない飯ごうを首からぶら下げ、半煮えの米を食べながら炎天下の行軍。
      そのまま力尽きて倒れていく将兵もいたのです。
 事故・・・武器はそれ自体が危険物ですし、戦闘時はある種混乱状態です。
      誤って爆発したり、見方の流れ弾に当たったり、塹壕(ざんごう)から頭を出した時に後方からの砲弾に打ち抜かれたり、
      と言った戦死者もおられるのです。

繁華街には傷痍軍人(戦争で体が不自由になられた軍人)の方が、
白装束で松葉杖を突き、首から箱を提げて立っておられる姿をよく見かけました。
大人の話の中にも、街の中にも戦後が色濃く残っていて、
引き揚げて来られた方たちの話は、戦争を語り継ぐと言うより本当に生々しい内容で、映像にも残っていないようなものでした。

ホタルを売る露天商・・・四条南座の向かい側に出ていて、買ってもらう
今では許されない行為でしょうが、当時はホタルを見に行くだけではなく、昆虫採集の様に捕まえて持ち帰ったものです。
山間のきれいな川(今と違い、都会の川はドブ川化していました・・)に行くとやたら飛んでいて、直ぐに捕まえられました。
生きの良いのを数匹かごに入れ、草の葉を入れて霧吹きで湿らせてやると、元気に光って1週間くらい生きていました。
寝る時に、蚊帳の中に放した事もあり、夏の風情でした。
一方、都会では珍しくなっていたのか、ホタルを売る露天商がいました。
大きなかごにホタルをいっぱい入れていて、そこから手に乗る程の小さなかごに入れて売っていました。
かごに移す時は手でつかまず、何か?に上手くつたわせ、小さなかごにフッと吹き入れていたように思います。
いつ頃、何故だか思い出せないのですが、
一度だけ買ってもらい、小さなかごをぶら提げて電球色に包まれた夜の市電に揺られて帰った思い出があります。
ホタルは独特の香り?があり、幼い頃の思い出の匂いです。
その後、一時は激減したようですが、
川の水もきれいになったのでしょう、私の家の近くの川でもたくさん舞うようになり、初夏の風物詩が戻ってきました。

進駐軍の将校が来店!・・・洋服の注文や仮縫いに来られました
戦後長らく米軍が進駐しており、近くの京都府立植物園が接収(所有物を強制的に取り上げること)され、
米軍の駐屯地として将校や家族が住んでいました。
防衛上、見通しを悪くするとのことで多くの木や茂みが伐採され、広々とした芝生の所どころに家があり、
プールで遊んでいる子供達などがフェンス越しに見えました。(私たちには遥か彼方の世界がそこに有りました)
ちなみに、小学校にプールが出来たのは私が卒業してからだったように思います。
父はオーダー紳士服店を営んでいましたので、駐留将校がスーツをオーダーしに時折来店しました。
主に母が流暢な?英語で対応していたようです。

目薬の空きビンでオートバイ遊び?・・・今のバイクでは有り得ない発想!
当時の目薬は市販品も小さなガラスのビンに入っていました。
少し角ばった筒状で、上部は広口になっていてゴムキャップがされ、それを押すと下から薬液がポトリと落ちてきます。
そこで、空きビンに水を入れて激しく上下に震動させると、勢いで水がポトポトと出る事を発見したのです。
ところで、何故空きビンが幼い私の手にも入ったかと言うと、
多分、当時は密閉度が悪くて薬液が傷んだり直ぐに乾燥して無くなったり、で捨てられるのが多かったのだと思います。
事実、栓の縁に乾いて結晶化した薬がこびりついていた記憶がありますから。

次に、これが何故バイクに結びつくかと言う事ですが。
当時のバイクはコックの下にガラス製のガソリン濾過器が付いていて(今のもそうですかね?)、
そこから、よくガソリンが滲んでいた(漏れていた?)ように思います。
この様子(エンジン周りが油で汚れているなど)が私には凄くメカニックに感じられて、
足で蹴って走るスケート(当時のスケートは3輪でした)を、オートバイのように変身させる方法を思いついたのです。
スケートのハンドルに目薬のビンをぶら提げ、ガタガタの土道を走ると適度に水が滴り、まるでオートバイに乗ってる感じ??
・・・・に酔って遊んでいた訳です。
今のバイクやペット入りの目薬を見ている子供には、とうてい有り得ない発想でしょうね。

サンタさんへのお願い・・・夜空に向かって真剣にお願いしました(純粋・無垢でしたねェ)
当然の事ながら、幼い私はサンタクロースを真剣に信じていた訳で、毎年何かをお願いしていました。
そんな中で、はっきり記憶しているのはボードゲームのセットをお願いした時です。
薄くて大きな箱には3枚のボードが入っていて、それぞれ表裏にゲームが印刷され6種類のゲームが楽しめます。
箱の左右は3つずつに仕切られて、各ゲームの駒等が入っています。
ダイヤモンドゲーム、野球ゲーム、洋風すごろく?、等などでした

クリスマスの少し前の夜、母にサンタさんはちゃんと持って来てくれるかな〜?と話すと、
お願いしておくようにと雨戸を少し開けてくれました。
私は何のためらいも無く、夜空に向かって大声で「○△+×▽?ゲーム下さい」って言ってました。

願いは叶えられ、25日の朝にはちゃんと枕元に届いていて、私は大喜び、ますますサンタさんを信じる事に。
年末年始は勿論、その後も事有る毎に、時には親戚まで持参して、大いに楽しみました♪♪
が、ひょっとして、周囲からはチョットうるさがられていたかも・・・・

回収した肥料(糞尿)が道路に散乱!!・・・1km程の商店街が悪臭に染まりました
大変な事故が発生しました。
その前に当時のトイレ事情と、糞尿の処分方法を説明しておきます。
一般家庭のトイレ(便所って言ってました)は汲み取り式と言って、水洗トイレと違い便器の下は筒抜けで、
下には大きな壷が有りそこに便を大量に溜めておきます。
今でも下水が整備出来ていない地域では残っているので、ご存知の方も多いでしょう。

が、今と決定的に違うのは、その糞尿の回収方法と、それを再利用していた事でした。
今は、チョット臭いますがバキュームカーが吸い取ってタンクに密封して処分場に運んでいますが、
当時は、近郊の農家の方が回収(汲み取り)に来られ(無料だったと思います)、畑の下肥として利用していました。
肥桶(こえたご)と言う木製の桶を、牛の牽く荷車に一杯並べ、一軒一軒回収に回られます。
便所の下の蓋を開けて柄の長い柄杓(ひしゃく)ですくい、用意した肥桶二つに満たして荷車まで運びます。
何故二つかと言うと、天秤棒と言うしっかりした長い棒の両端に肥桶をつるし、肩に背負って運べるからです。
当然、桶にはしっかりと木の蓋をして運搬しますから、多少臭うものの、移動中にこぼれる事はありません。
ただ、荷車を牽く牛(馬もいました)の糞が道によく落ちていましたが。
不衛生では有るものの、そんなこんなを取り立てて問題にする事も無い、のんびりとした世の中だったのですね。

ところが、一大事が発生!
当時はまだ珍しかった交通事故が発生、自動車がくだんの荷車を破壊・横転させてしまったから大変。
道路一杯に壊れた肥桶が散乱し、一面糞尿の海と化してしまったのです。
その惨状たるや想像を絶するものでしたが、さらに最悪の事態になってしまいました。
と言うのも、それらを洗浄するために消防車が出動して多量の水で洗い流したものですから、
糞尿は道路の側溝にどっと流れ込み、下流に向かって1kmほどの商店街が糞尿臭の川と化してしまったのです。

今のように密封された下水道はなく、排水は全て大きな(小川のような)側溝に流し込み、
それがそのまま下水処理されずに河川に流れ込んでいました。
日本中の都市河川がドブ川化していた時代のお話です。

台所用洗剤は生野菜を洗うため・・・今でも農薬汚染のある国では洗っているようですが
<台所用洗剤が出回ったのはもっと後だと思いますが、畑の下肥の話が出たのでここで触れる事に>
当時は余り生野菜を食べなかった、と言うか食べられなかったのかも知れません。
と言うのも、回虫など寄生虫の卵が野菜の根元に残っていたりと、不衛生だったからで、
その原因は畑に下肥を散布?したことによると聞いています。
農薬も強いものを使っていたと思います。・・・農薬散布後の水田には綱が張り巡らされ、赤い旗が立っていましたから。

野菜はよく洗い、根元近く(葉っぱが分かれている部分)は切り捨て、熱を通して食べるようにしていました。
小学校に入ってからも、そうするように習った記憶があります。
台所用洗剤が出回り、テレビでCMを初めて見たとき、洗剤を薄めた水でキャベツなどの野菜を洗いながら、
「これで安心して生野菜も食べられます」てな事を言っていました。
台所用洗剤は食器洗い(当時の食器はさほど油濃くならなかった?)ではなく、野菜を洗うことから始まったようです。

やっぱりわんぱく坊主・・・この頃までかな?
未だ幼稚園児だったのに、幼稚園の窓から下校する小学生に向かって、
「1年生いんでこい、2年生にげてこい、3年生・・・・(3年生からは覚えていません)」と喧嘩を売っていました。
道端に鶏小屋を作っている家があり、帰りに鶏をからかって、怖いおばさんに追いかけられた事もありました。
一方、毎朝園長先生のお話を聴き、お釈迦様を称える歌を歌い、先生や親の言いつけをよく守る良い子でした。
その頃は、年下の子や年長の子、優しい大人や怖い大人、楽しい事や怖い事、良い事といけない事、・・・
色々がひと塊の世界で育っていたように思います。

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7〜12歳(小学生)の頃(昭和30年〜35年)の思い出
    <この6年間の記憶は時期がはっきりしません。前後はまちまちです。>

米軍空軍基地を見学・・・喫茶店で食べたチーズクラッカーと白黒テレビの相撲?中継
叔父が米空軍基地(今は航空自衛隊の基地)の近くで寿司屋をしていた事から将校などに顔が利いたのか、
基地内を見学させてもらった事があります。
残念ながら基地内の様子は覚えていないのです(多分重要なところは見せてくれないから、印象が薄いのでしょう)が、
その時連れて行ってもらった喫茶店で食べたチーズクラッカーが、凄く美味しかったことを良く覚えています。
未だに、美味しいチーズクラッカーに出会いたいと思っています。

店内は少し薄暗くて勿論大人ばかり、どこか別世界のような感じがしていました。
米兵もいてお酒を飲んでいたようなので、バーだったのかも・・・・・
大人に混じってソファーに腰かけ、テーブルの上に出されたものを飲み食いしていたのですが、
覚えているのは、チーズクラッカーを美味し〜い!と思った事だけです。
それと、片隅の天井近くに据えられたテレビ(勿論白黒)で相撲?の中継をしていた事が何故か印象に残っています。
ちなみに、テレビが発売されてのは昭和28年2月だそうですので、珍しい物だったと思います。

10年玉にはオスとメスがある!?・・・メスの鳳凰は尾が上を向いてる
当時は、周囲がギザギザのいわゆる「ギザ10」でした。
昭和26〜27頃までの鳳凰は尾が短く上を向いたような形で、今のように垂れていません。
当時、詳しい事を知らない私たちは、オスだメスだと虫眼鏡で見分けて遊んでいました。
どうでもいいけど、ふ〜んと思った方は、一度古い10円玉を見てください。

昭和31年の10円玉?・・・いくら探しても見つからない??
昭和31年は、既発行の10円玉で流通量が多くて市場に足りていた為、製造されなかったそうです。
そんな事とは知らない私たちは、希少価値があって見つけたら高額だとか言って、
10円玉を手にする度に懸命に探していました。全くの徒労だとも知らずに・・・・・

10円銅貨を銀貨に変身させる・・・磨いてぴかぴかの銀色に
10円玉で思い出したのですが、銀色に変色させて遊んだ事がありました。
当時は、小学校の正門近くに怪しげな露天商がよく店を出していて、
下校途中の小学生を相手に、いろいろと怪しげな物を売っていました。
黄色いひよこ、手乗りウサギ、手品の道具、白い紙でも黒い紙でもはっきり字の書ける粉、等など・・・
そんな中に、灰色の塗り薬のような物を言葉巧みに売っている、まさに怪しげな露天商がいました。
私たち少年にとっては何とも不思議・興味津々!
「早く来ないと帰っちゃうよ」の声を背に、友人たちと飛んで帰り、小遣いを握り締めて買いに戻りました。
家で試してみると、アラ不思議、本当に10円銅貨がピカピカの銀色に!
近所の八百屋のおじさんに見せて驚かせたりしてましたが、
10円らしくなくて使いにくいとのクレーム(叱られて)や、ピカピカも日にちと共に色あせてしまい、などで、
そのうち忘れてしまいました。
塗り薬のような物は「水銀軟膏」という物らしく、
今は絶滅したお薬(水銀汚染の懸念からでしょうか)のようです。
しかし、通貨を変色させてはいけないですね〜

怪しげな露天商で買ったもの・・・続き
ひよこは可愛いのと、家で卵が採れるかもと思い、何回か買ってしまいました。
<当時卵(玉子)は、少し高級食品でした。>
電球で暖め、ハコベを刻みゆで卵の黄身を混ぜ、と懸命に育てましたが、上手く育ちませんでした。
死んだらちゃんとお墓に埋めて、命の儚さ尊さを実感し、良い勉強でした。
そんな中で、育てるのが上手だったのか、幸か不幸か裏のおうちでは立派に育ちました。
朝から大声で「コケコッコー〜!」・・・結局卵は産まない、うるさいばかりのオスばっかり!でした。

手乗りウサギは買いませんでしたが、友人が買い求め、これまた上手に育てて!
手に乗るどころか、抱き上げるのも大変な大ウサギに成長しました。

手品の道具は本物でしたが、手際がプロのようにはいかないのでバレバレだったり、自分でも解らなくなったり・・・
ちなみに、白い紙でも黒い紙でもはっきり書ける不思議な粉は、単にグレーの粉だったのです。
詐欺じゃない?けど当たり前の事でした。

玉子の話・・・今のようにパックに入って山積みで売られていませんでした
当時は、卵は1個ずつ買い求める物で、店先には籾殻を入れた木箱にキチンと並べて売ってました。
価格は今と同じくらいの1個10円〜程度と高価だったように思います。<玉子は値上がりせず価格の優等生らしいです>
病気見舞いと言うと、当時は高級果物のバナナとか、栄養が付く玉子などで、
玉子は仕切りの有る箱に丁寧に入れて包装して持って行きます。
普段は、「五つ下さい」なんて言うとおじさんが紙袋に入れてくれますが、割れるようなやわな物は無かったです。

手榴弾のような花火「2B弾」・・・危険で今は販売していないでしょうネ
ご存知の方も多いと思いますが、今思うとかなりやばい玩具花火でしたね〜
ご存知ない方に少し説明します。
当時は大小いろいろあったように思いますが、数センチの長さでタバコより少し細い程度。
打ち上げ花火のような筒状で、頭にマッチの点火薬が塗ってあります<これですでにヤバイと思えるでしょう>。
マッチ箱の横の薬にマッチのように擦ると点火し、直ぐに煙がモクモクと出ます。
煙が出始めたら数秒以内?(多少ずれがあり不正確)に爆発します。

遊び方−1(戦争ゴッコ・・・・本来の遊び方だったと思います)
これを、手榴弾とか言って敵味方に分かれて投げ合っていたのだから凄いですよネ。
なるべくギリギリまで持って投げないと、敵が拾って投げ返してきます。
ビビリの子は直ぐに投げちゃいますから、投げ返されて逃げ惑う羽目に。
私は、ギリギリまで持って投げようとした時に爆発して、指は痛いは、右耳はキ〜ンとなるはで、
危ない目に遭ったことがあります。

遊び方−2(爆雷遊び・・・・敵潜水艦を攻撃する兵器です)
重石を付けて煙が出始めてから水に落とすと、煙だけが水面にボコボコと上ってきて消えません。
固唾を呑んで見守っていると、ボウンと鈍い響きがあってバッと泡がでてきます。
何だか凄い感じで、一同「ウォー〜」っとなっていました。
(注)魚に影響が出るほどではなかったです。

そのほか色々と悪知恵?を働かせて遊んでいました。
そういえば、爆竹の束をばらしてダイナマイトと言って遊んだ事もあります。
これは、チョロっと出た導火線に火を点けて一目散(導火線の火が早くて直ぐに爆発する)に逃げました。
鉄パイプや空き缶に仕込み、泥などで蓋をして爆発させると、泥がドーンと飛び散り凄かったです。
友人と遊んでいたとき、よそのお家の玄関が泥だらけになって(方向が狂って)逃げて帰った事もあります。
プラスチック製のモデルガンの銃身に入れたときは、銃身が木っ端微塵に飛び散り、さすがに危なかったァ〜と思いました。
その後、危険を感じたのか遊ばなくなったようですが、よく怪我をしなかったな〜と思います。

水筒にサイダーを入れて来た友人・・・皆にも分けてくれたのは良いのですが!
未だ低学年の頃だったと思います。奈良へ遠足に行った時の事です。
若草山でお弁当になりました。
当時は水筒といえば同じ形で、楕円形で少し扁平になって体にフィットするよう片面が平に成形された金属製でした。
中身は当然お茶で、一般的に常用していた番茶が入っていました。
わいわい騒ぎながら弁当を食べているとき、一人の子が『おれらサイダーやもん』と水筒に口を付けて飲んでいます。
回りの皆は「へーッ!ええなー」・・・となり、気の良い彼は一口ずつ分けてくれる事に。
水筒の小さなキャップになみなみと注いでくれて、一人ずつ回し飲みです。
私ももらって飲もうとしたら、なにやらモヤモヤとたくさん漂っています?・・・
そう、彼はゆで卵をもりもり食べながら、水筒のサイダーをラッパ飲みしていたのです。
さすがに汚いなーと思ったものの、返すわけにもいかず、次の友人が順番を待っているので、
仕方なく飲んで次に回しました。
玉子の黄身が漂った、気の抜けたサイダーは、甘くて、生ぬる〜くて、ほんのり香る?砂糖水のようでした・・・・・

お隣が駄菓子屋さんでした・・・今の駄菓子専門店などとはやはり違っていました
一般庶民の子供のお菓子と言えば、毎日もらうお小遣い(10円くらいだったか?)で買える駄菓子と、
時折、もらい物やお土産などのチョットぜいたく品がおやつにもらえる程度でした。
当時の駄菓子屋の様子は、映画のシーンや復古調に内装されたお店で再現されていて珍しくも無いと思いますが、
全ての素材が今のものとは基本的に違いますから、その頃の雰囲気は忠実には再現できないですね。
ばら売りの1〜2個が1円と言った飴や煎餅は勿論ですが、容器のビンから、包装の紙・印刷、当て物の仕掛けなど、
全てが、質素・素朴・粗悪・不衛生・危険?で、古びた店構えと相まって独特の楽しさが漂っていました。
奥にはガラスビンに入った飴玉やキャラメル等のばら売りのお菓子が並び、
前には、色んなものが混然と入ったガラス蓋の箱が並び、壁の棚や、天井からの吊り下げも色々一杯!
おまけに荒物(結婚の時にもらった鍋や金のお盆は今も重宝しています)も売っておられたので、
いわゆる「何でもやさん」でした。
牛乳味?!の2枚入り板ガムが5円でお気に入りでした。
今のように、賞味期限や成分表示も無く、親の検品を受けることもなく、色んなものを食べていました。
夏には、その隣の牛乳屋さんが自家製のミルク味アイスキャンデーを販売され、1本5円で良く食べました。
そのうち、少し離れた駄菓子屋が2本5円のアイスキャンデーを売り出し買ってみましたが、
薄い黒砂糖味でさほど美味しくも無く、一度に2本食べる(誰かと分けなかったのでしょうか)気にもならず、
余り買わなかったです。

オートバイの後に乗って福井まで・・・父の大型バイクで、勿論2人ともノーヘルでした
父の故郷は福井県若狭町で、お盆には良く家族で行きました。
家族で行くときは鉄道(当時は国鉄)とバスだったと思いますが、父と二人のときはバイクでした。
この頃になると、父は大型のバイクに乗っていて、魚釣りなどの遊びにあちこち連れて行ってもらいました。
バイクの後にチョコンと乗って、長時間走り回りましたが、ヘルメットなどはかぶっていませんでしたネ。
今思うとチョット考えられないですが、当時は当たり前で、父は愛用のハンチング、私は野球帽程度でしたか・・・
当時の道路はほとんど舗装されていない地道で、穴ぼこと水たまりだらけで、上手くかわしながらのツーリング?
「車(4輪)と違い、バイクは穴ぼこを避けて走れるから乗り心地が良い」と言っていた父の言葉を、
妙に納得していました。
福井までは、大原から若狭路(鯖街道)を通り、今津から上中町へ抜けますが、凄い山道でした。
二人とも若かったんですネェ〜

大雨になると思い出す、危ない!・・・今でも思い出すとゾッとします
時として子供は常軌を逸した、考えられない、世にも危険で恐ろしい行動をするものです。
それは、大雨の後に父の故郷へ帰っていた時の事でした。
あたり一面水田の広がる農村で、来た時はいつも虫取りなどで遊び回るのですが、その日は大雨はあがったものの、
虫取りに走り回れる状態ではなかったので、年上のいとこの子とそこらの様子を見て回る事に。
小川や用水路は溢れんばかりの勢いで流れ、凄いね!なんて話しながら見回っていた時です。
何処からとも無く、ズズズズズ〜ッツ!、ボゴゴゴゴ〜ッツ!、と物凄い音が聞こえてきます。
音の方へ行って見ると、集まった水が「地下水路」の入り口で巨大な渦を作って吸い込まれているではありませんか。
凄い渦だ!!となり、あぜ道から少し身を乗り出してのぞいても底知れない深さで奥底までは見えません。
も少し見たいのに、と辺りを見渡すと、悪魔の仕業か!?・・・ か細く長い竹の棒が落ちているではありませんか。
いとこの子がその棒を拾い渦をつついてみると、水底にコツンと届きました。
とその時、突然、その子は棒をつっかえにして身を大きく乗り出して渦の底を覗き込んだのです。
竹の棒は少しグニャッとしなり、そしてその子は「ヨイショッ」と身をあぜ道に戻し、「すご深いわ〜」。
私は見たくてたまらず、恐る恐る、同じように細い竹の棒に身を預け、渦の底をのぞいたのです。
体重を預けると竹の棒はグニャッとしなり、それでも渦の上まで身を乗り出して見ると、
渦は太くてどこまでも底に伸び、暗闇へと吸い込まれていました。
チョットした地獄を垣間見た感じで、二人とも興奮気味で無事に帰りましたが、
あの時、竹が折れたり、手が滑ったりしていたら、私は今いないと思います。

白黒テレビが来た・・・映りが悪いとチューナを抜いて新聞紙で磨く!!
初めてテレビが家に来たのは、小学校の中頃だったように思います。
既に3種の神器の、冷蔵庫と洗濯機は有ったので、やっと3つ目が揃ったわけです。
洗濯機は、いつの間にか有って、洗濯物はローラーで絞るので、煎餅のように薄っぺらになりました。
冷蔵庫は、ずっと氷を入れるものが有って、毎日?氷屋さんが持ってきて入れてくれました。
電気冷蔵庫が来た日の事は、無性に嬉しかった(洗濯機はさほど嬉しくなかった?)のでよく覚えています。
テレビを買ったのが比較的早かったのか、近所の友達が良く見に来ていました。
紅白歌合戦の中継だったと思いますが、ステージの煌びやかさを説明しきれないアナウンサーが、
思わず「この美しさをカラーで皆様にお届けできないのが残念です!」と絶叫していました。
少し老朽化して映りが悪くなると、チューナー部分をズボッと抜き、中に並んだ接点の金属を磨きます。
磨くのは新聞紙が良くて、汚れが良く落ちるのと、インクの油分が適度な潤滑油になったようです。
中をのぞくと、ロボットのような妙な形の色んな真空管がビッシリ、
修理の時に古い真空管をもらって、よく眺めていました。

                                   13〜15歳(中学生)の頃(昭和36〜38年)の思い出へ  目次へ

毎年高浜へ海水浴に−1・・・保津峡の渓谷は遠くに思ったのに
毎年夏休みになるとすぐ、若狭高浜に海水浴に行っていました。
母と二人が多かったように思いますが、父が仕事の合間に来てくれたり、友人家族や親戚の子が一緒だったり。
大体10日間は行っていましたし、お盆前後は父の里へ、その他は母の実家で歳の近い叔父・叔母と遊びほうけていましたから、
夏休みは、余り家には居なかったようです。
高浜へは、二条駅から汽車に乗って、ガッタンゴットン・ポッポーってな感じでのんびりとした旅でした。
だいぶ遠くまで来たなー(今ならすぐの感覚なんですが)と思った頃から渓谷に入り、渓谷の景色をゆっくり見る余裕も無く、
ポーォーッと汽笛が鳴ると、急いで窓や通路のドアを閉めなければなりません。トンネルの合図なんです。
締め忘れやタイミングを間違えると、一気に機関車の吐いた煙と蒸気が吹き込み、トンネルを出たら顔も衣服も煤だらけです。
そんな状況から、遠くに来たなーと言うか旅に出たよーと言った感じを持っていました。
が・・・・結婚したら、そのまだ先の亀岡に住むとは!、そして、そんな列車で通勤するとは、
思いもよらなかったです。

毎年高浜へ海水浴に−2・・・ダットサンで帰り道9号線老いの坂が舗装工事中
小学校の5年か6年の時に、父は念願かなって中古ではありますがダットサン(名車だそうです)と言う名の車を買いました。
高浜まで父が車で迎えに来てくれた事があり、比較的道が整備された舞鶴経由で国道9号線を通って帰る事になったのだと思います。
京都の入り口の難所である老の坂峠では、トンネルや周辺道路が整備工事の真っ最中で、峠の道路は舗装工事をしていました。
片側通行で、通過中に工事の様子を見ると、型枠にコンクリー(アスファルトじゃない)を流し込み、
それに、大きな音で大層な重機が丸い型を付けています。
カーブがきつく、冬の凍結も有るので、スリップ止めの型の様で、まるで亀の甲羅みたい!なんて言ってました。
今はアスファルトのスムーズな路面で快適にドライブできますが、この亀の甲は30年ほど前まで残っていて、
新車を買って快適なドライブをしていても、峠道に差し掛かると、ドドドドド・・・ビビビビビ・・・と振動と響きで困りものでした。

毎年高浜へ海水浴に−3・・・母と浮き輪一つで沖合いまで!
今思えば大胆と言うか無謀と言うか、と、私も母も同じ思いなんですが・・・・・
私も母も金づちでしたから、泳ぐとなると浮きわが必要で、ビニール浮き輪にはまってパチャパチャと無邪気に水遊び状態でした。
浜には貸しボートと貸し浮き輪があり、よく貸し浮き輪で母と沖合いまでプカリプカリと遠泳?していました。
貸し浮き輪はビニールのものと違い、トラックのタイヤチューブで出来ていて大きくしっかりしているので、やたら頼りがいがありました。
二人はそんな浮き輪を信頼しきって、私が中に入り外から母がつかまって、適当に泳ぎながらいつしか沖合いまで。
なんとも無謀な事です。
やはり、二人とも若かったんですネェ〜

魚釣りの面白さを覚える・・・海はキス釣り、川は雑魚釣り・もろこ釣り
初めての海釣りは、海水浴に行っている時に小さな漁船をチャーターして沖合いでキス釣りをした事でした。
朝暗いうちに浜辺に行くと、予約しておいたポンポン船が待っていて、母と(時には親戚の子も)一緒に乗り込むと、
ポンポンポン・・・と小気味良い音を響かせながら沖合いまで連れて行ってくれます。
道具は漁師さんが用意してくれた手持ちの脈釣り仕掛けで、大きなゴカイ(イソメ?)を包丁でぶつ切りにしたものを針に付けます。
沖合いの砂底では大きなキスが面白いように釣れ、藻場や岩礁周りだと大きなベラ(色が少々どぎつい)が釣れます。
宿へ持ち帰ると、焼いたり煮たりと調理してくれて、夕食の食卓に並びました。
川釣りはもっぱら父とバイクで出掛けました。
あちこちの河川や琵琶湖へと出掛け、主に雑魚(ハイジャコ、オイカワ)釣りで、夕食に白焼きして酢醤油をかけて食べました。
もろこ釣りは本当にのんびりホノボノとした釣りでした。
春うららかな日に、琵琶湖に流れ込む小川に短い竿(もろこ竿)出し、ひばりの声お聞きながら小柄な「本もろこ」を次々と釣ります。
群れが回ってくると、並んだ釣り人の竿が下手からあるいは上手から順次一斉に立って来るので迫り来る様子が良くわかります。
当時は外来魚による被害も無く、今や希少種となった「本もろこ」が山ほど釣れました。
半世紀前までは「本もろこ」も高級魚ではなく雑魚の仲間で、琵琶湖の春の風物詩でした。

学校で父と疎水資料の映写会・・・社会の教材に父と琵琶湖疏水等をカラー写真に
当時から、父は写真とスキーに凝っていました。
スキーの方は、雪国出身だけあって幼少期からかなりの腕前だったようで、よく山岳スキーに出掛けていて、
何日も留守にしていました。
老いてからはもっぱらゲレンデスキーでしたが、80歳過ぎても現役バリバリでしたね〜;

本題の写真ですが、キャノンの高価なカメラで、カラースライドに特に凝っていて、よくスライド映写会をしました。
私はあまり良く覚えていないのですが、自由研究だと思いますが琵琶湖疏水の事をテーマにして、
父と、琵琶湖から山科方面〜インクライン跡のある岡崎や南禅寺界隈まで、あちこち撮影してまわり、
学校の講堂でスライドの映写会までやっちゃった事があります。

どうも、父も私も凝りだすと、とことん突っ走る性分のようですネ。

水晶採り(岩の隙間にビッシリと水晶が!)・・・きらめく石やガラスが好きでした
男の子は、一度ははまる宝石・奇石の採集と蒐集です。
京都市は山に囲まれているので採集場所はあちこちに有りました(今もあると思います)。
当時は北区の上賀茂に近いところでしたから、自転車で直ぐに山に入れて探検には事欠きませんでした。
友人間で情報交換したり、自分たちだけの秘密の採集場所を探したりで、
シャベルや金づちを持って山に出掛け、一日中岩の隙間を探し回りました。
さすがに、加工できるような大きなものは見つかりませんでしたが、
岩の割れ目を砕いて中を見ると、小さな水晶がビッシリと生えて?いて、きらきらと輝いています。
あの時の感動は今も覚えています。
もう一度あの岩山によじ登って探してみたいものです。

ビー玉遊び・・・家の外は勿論、家の中でも飽きずに
今は道路(道端)がほとんど舗装されてしまい、遊び場所が限られてきましたねェ。
当時は、道端はいたるところに小さな穴がほられ、ビー玉遊びの場所になっていたように思います。
中央に大き目の穴、東西南北に一個ずつで、この穴はそれぞれ中央からの距離や穴の大きさが異なり、
難易度が違うように設計?されています。
この穴たちの出来具合がゲームの面白さを左右するのです。
ビー玉を中央から東西南北の穴へ順に、指ではじいいて、入れていきます。
相手の玉が穴近くにあれば、それを弾き飛ばして、自分の玉を穴に入れる。
なかなか技術の要る競技でした。

他には、ビリヤードのように三角に並べた玉に、手玉を投げつけてはじき出させるゲームです。
投げる場所(ライン)は三角地点から徐々に遠くなっていくので、
投げる時にラインから足を出さずに、体だけを前に倒しながら手を伸ばして投げます。
当然地面に倒れこむわけですから、痛いし汚れますが、これをビビッているようではダメ!なんですね〜。
お陰で、右手の親指を思い切り捻挫してしまい、今でも関節が少し外れる様になります。

家の中では、畳のでこぼこを利用して転がしてみたり(フローリングはフラットすぎてダメです)、
敷居の溝を利用したりと、飽きずにビー玉と戯れていました。
ビー玉は大小色々ありましたが、私は柄の入っていないシンプルでノーマルな玉が好きで、
特に、小ぶりなやつがお気に入りでした。
溝に並べ、一方から転がしてあてると1個はじき出され、強く当てても弱く当てても1個だけでます。
既に、習わなくても慣性の現象を理解していましたよ!

ラジコンカーを買ってもらう・・・国産最初(多分)のラジコンおもちゃで、今も保管してます
九州に父の兄が居て、この人(伯父)は米軍にも顔は効くは、金回りは良いはで、凄い人でした。
そんな訳で、この人に発売間もない高価な「ラジコンバス」なるおもちゃを買ってもらいました。

今のラジコンカーのような、スピードが出たり左右自在にハンドリングできるレーシングカーとは程遠いもので、
発信機にはスイッチが一つで、これを押すとビーッと言って、機内に火花が見えて発信するだけの、
なんとも悠長なものでした。
バスの電源を入れて狙った方向に?向け、ビーッと一発鳴らすと、受信したバスはグイ〜ィンとうなりをあげて、
ノソノソと動き出します(早く走っちゃダメ!なんです)。
もう一発ビーッと鳴らすと、バスはグイイ〜ン・ガチと言って右にハンドルを切ります。
もう一発ビーッと鳴らすと、今度は同じくグイイ〜ン・ガチと言って真っ直ぐににハンドルを切ります。
次は左に、その次は真っ直ぐに、そして最後に停止。
またビーッと鳴らすと、バスは動き出すところから始まります。
これで分かりましたね!早く走っちゃダメなわけが。
ビーッと鳴らすと、バス信号を受信して、そのタイミングで動いたり止まったり、ハンドルを切ったりと、
決められた順番に作動するのです。
積み木を並べて、そのコースを上手く走らせる(動かす)のは至難の業でした。
お陰で車の運転が上手くなったかどうかは・・・・・

その後、音に反応するバスも出ました(これは買ってもらいませんでした)。
バスの天上にパラボラアンテナみたいなのが付いていて、笛の音で動いたり止まったり、
アンテナが音に反応してクルクル回り、バスはアンテナの向いた方向に勝手気ままに動きます。
なんとも奇想天外なバスです。
これでコースを走らせるのは全く無理!でしょうね。

初めてのスキー・・・京都市の北部に有った身近な「花背スキー場」
初めて父にスキーに連れて行ってもらったのは、京都市の北部に有った(今は無いと思います)花背スキー場でした。
初めてにしては結構過激(急坂)なゲレンデで、直滑降は危ない!と、いきなり斜滑降から入り、
クイックターンで方向を変え少し登って、再び元の場所に戻るパターンで練習しました。
と言っても、初心者に斜滑降は難しく、途中であれよあれよと直滑降になってしまい、
結局猛スピードで転倒という状態でした。

ゲレンデの中ほどにロッジがあり、温かいうどんが美味しかったです。
ビン入りジュースは中まで凍っていて、苦労して少しずつ融かして飲んだ事を思い出します。
最初の頃は、リフトはなくて登りが大変だったように思います。
リフトと言えば、今のような椅子式ではなく、変な物もありました。
たくさん輪ッカが付いたロープがゲレンデをズルズルと巻き上げられていて(リフトのように回転している)、
登りのロープにつかまって、少ししゃがんだ格好で滑りながら引き揚げられるリフト?です。
チョット大変で、斜面を真っ直ぐ滑っていないと転んでしまい、手を離せばそこでおしまいです。

ところで、父は福井県出身で子供の時からスキーをしていたので、その当時では超ベテランでした。
若い頃は、しょっちゅう山スキーに出掛けていましたし、ゲレンデスキーは80歳過ぎまで滑っていました。

見事に底が抜けた牛乳ビン・・・牛乳をビンのままストーブの上に乗せたやつは誰だ!
冬の教室には、石炭ストーブ(ダルマ型のもの)が有り、上部にには洗面器にお湯が沸かされていました。
給食の牛乳は悪名高き脱脂粉乳でしたが、いつからかビン入り牛乳が現れました(時期不明)。
脱脂粉乳は臭くて温かでしたが、ビン入り牛乳は味が良くても冷えていました。

冬は温かな牛乳が飲みたくなるのは人情(子供でも同じ)で、洗面器のお湯で温めようとするのも自然の成り行き。
ところが、洗面器のお湯は温かいのではなく、沸騰した熱湯でしたから、冷たいビンを急に入れるとどうなるか。
不思議と入れた時は全く分からないのですが、底の部分にリング状にひび割れがしっかり入るようです。
温まったかなァ〜と持ち上げると、カランと底が抜け、ドヴォドヴォ〜と中身が全部出てしまいました。
なかなか良い実験?体験!で、以降だれも真似する者はいませんでした。
なお、失敗したのはクラスのガキ大将で、私ではありません。

石炭ストーブで悪ふざけが過ぎる・・・ブフォ〜と噴射!教室中灰まみれに
これもクラスのガキ大将の大実験?大失敗!です。

石炭ストーブの最下部は皿状の器になっていて、底に灰がたまるようになっています。
当時はたぶん、床面まで熱くなりすぎるとかだったと思いますが、底に水が満々とはってありました。
授業中は、灰はジュッ!チュッ!といって受け皿に落ちているのです・・・・・
掃除の時間になってもまだ燃え盛っている事がありました。
掃除当番だったくだんのガキ大将が、灰を早く落とそうとしたのか、石炭を載せている網を激しくゆすったから大変。
網がガタン!と外れ燃え盛る石炭が一気に水の中へ落下。

後は想像どおり、と言うか想像を絶すると言うか。
ストーブの下の口から、ヴヴォヴォ〜ンと唸り声を上げて灰と火の粉と蒸気が一気に噴出(大爆発)し、
教室中灰まみれ、皆も灰まみれ、しばらく何も見えないほどに灰が漂い、大騒ぎ!
先生は血相を変えて駆けつけるは、生徒達はパニック状態。
で・・・・・その後の悲惨な顛末は思い出したくないのか、記憶から抹消されていて思い出せません。ハィ・・・

飴細工の職人技にうっとり・・・吹きガラスのような、ガラスのミニチュア細工のような
今では殆ど絶滅状態で伝統工芸?の域に達したと思われますが、当時は祭や夜店、縁日で良く見かけました。
最近は、以前1〜2度ですがテレビとクラフトイベントで見た記憶が有ります。
やはり、かなり衛生面を考慮した作り方などの工夫がされているようでしたネ。

が・・・・ 当時は業を見せる事が第一だったのか、見物人(主に子供)がオオ〜オッ!と感嘆するのが狙いなのか、
食品を扱っているとは思えないような技が見られたように思います。
当時はなんとも思わず当たり前のように見ていましたし、買って食べたりしていましたが・・・・・今思うとチョット;;;

作り方は・・・・・
熱せられてやわらかくなった飴を、筒状の棒(細い竹筒?)の先に巻き取り、やわらかい内に素早く細工します。
食紅で柄を描き、はさみ(握りバサミ)で切れ目を入れてつまみ出したり、引っ張って伸ばしたり。
動物や鳥などが、ミニチュアのガラス細工のように、アッと言う間に出来上がり見事なものでした。

ただ、胴体部分を大きくする時に吹きガラスのように筒の下からおじさんがプゥ〜と吹いてふくらまします。
引っ張るときは、飴が指に引っ付かないようにチョット指をねぶってからつまんでいたような・・・・
お持ち帰りの時は、袋に入れてくれますが、袋をフッと吹いてふくらまして入れます。
決してキレイと言えない(むしろ小汚かった)おじさんでしたよ。
道具立ても自転車の上に箱を乗せて、清潔な状態ではない材料や道具が入ってました。

でも、病気にもならず、元気に走り回り、美味しく食べて、楽しかったです。
・・・・・・ちょっとぐらい不潔でも大丈夫!むしろそれぐらいがアレルギー体質にもならず丈夫になるのかナッ?

夜店に「たこ焼き」の露店が出た・・・何だか変な食べ物、でもおいしい!
住んでいたところは商店街で、毎月何日かになると夜店が出ました。
今と違って大したレジャーが日常には無かったので、それは賑やかなものでした。
出店の数もハンパナイ状態で、長々と並び、人出もかなり多かったです。

子供の定番は、金魚すくい、ようよう釣り、くじ引き、輪投げ、綿菓子、べっこう飴、カルメ(カルメルの事)など。
昔ながらの遊びやおやつていどでした。が・・・・・・

ところが有る時期に、突然『たこやき』!なるものの噂が流布してきました。
美味しいらし!、どんなもん??、お好み焼きの丸いの??、みたいな噂話を母としてました。
隣のおうちでは、いっぱい買って帰って食べたはるんやて!すうご〜美味しいてェゆううたはるけどなァ・・・
はじめの頃は、なんかきたないんとちゃうかァ〜、なァ〜、ってな調子でしたが。

ついに、有るとき買ってしまいましたが、今のたこ焼きとは少し違いました。
と言うのは、「たこ」は入っていますが、他の具(ねぎ、キャベツ、紅しょうが、天かす、等)は少し少な目で、
形は見事なまん丸で、中は空洞でした。
熱々を食べると、パフッと熱気が噴出し「アツアツ〜」てな事になりました。
それでも当時は美味しい物だったので、時々買うようになり、そのうち家でもやってみました(全く丸にならず)。

やはり、職人技でしたねェ、今思うと・・・・
かなり薄めに溶いた粉を少なめに入れ、表面が硬くなったら手早く回転させることで中の液体が表面を流れ、
周りを上手く覆って球体に成形されていたのです。
今のように、山盛り入れてそれを押し込むようにして丸くしたものとは、基本的に技がちがいました。
とは言え、中までしっかり具が詰り味の良い今の『たこやき』のほうが美味しいです。
『たこやき』も半世紀も経てば進化するのです!!

短編映画『ガラスはジャズる』を観て感激・・・講堂での映画会、煙を上げながらの映写機
当時は、時おり?年に1回程度??・・・学校での映画会が行なわれました。
内容はおおむね教育的な物だったと思いますが、殆ど覚えていません。
かなり大変な準備をして、せっかく上映していただいたのにゴメンナサイ。

会場は講堂(今はたいてい体育館と言うと思います)で、ゴザや椅子を並べて、観ました。
当時の講堂は土足で入り、床は油引きされた板張りで、教室と同じでした。
雨の日の体育の時間や、全校集会、各種式典に使われ、くどいようですがシート等を敷くこともなく土足のままでした。
だから、座るにはゴザを敷いたり椅子を並べたりと、たいそうな準備が必要でしたし、
暗くするために、高所にある窓もすべてに黒い暗幕をしなくてはならず、それはそれは大変だったと思います。

さらに、映写機も凄くて! 中央後方に卓球台や机を積んで高い台を作り、その上に大きな映写機をドンと据え付けます。
大きな映写機の光源はランプじゃなくて、「アーク灯」だったと思います。
ビィジィジジジィ〜ン〜と放電する鈍い音を発して、上部からは煙がもやもや〜と立ち昇るんです。
映写機は隙間だらけなのか四方八方に光が漏れ、それが煙を浮き上がらせてなかなかの見ものでしたヨ!

観た映画で記憶に有るのは、『風邪の叉三郎』という何とも言いがたい内容の映画と、『ガラスはジャズる』と言う映画でした。
『ガラスはジャズる』は、ガラス工場の作業工程を、ジャズの音楽に合わせてリズミカルに映像化されていて面白かったです。
今でも観たいと思うのですが、探しても見つかりません。
特に印象的だったのは、ビー玉を作る行程で、穴から絞り出されたガラスがパイプ状の樋を転がり落ちながら徐々に丸くなり、
最後の受け皿に出たときはビー玉になっているのです。
その流れが、派手なジャズの音楽と絶妙に展開していて、今でもはっきりと映像が脳裏に焼きついています。

今思うと、ガラスを強烈に意識したのはこの時だったかも・・・・・・

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13〜15歳(中学生)の頃(昭和36〜38年)の思い出

ブラウン管の実験で爆発!・・・物理部での実験1
理科工作、理科実験、危険実験が大好きな私は、中学校に入ると物理部に入ったのです。
理科系は全般的好きでしたが、生物部や化学部、地学部、ラジオ部、では無く、
色んな(チョット危なそうな)実験や工作が出来ると思い物理部を選びました。

色んな研究や実験をしましたが、今となっては余り覚えていません・・・・・・
流体の流れの観察とその原理や、雷の発生メカニズムなどは少し記憶にある程度です。

やはり面白かったのは、高電圧を使っての実験で、2〜3万ボルトを発生させて放電させたして、
しょっちゅう感電していました。
感電と言っても、電流が極めて弱いので体内を貫通することなく、局部が強烈に痛かったり、
チョットしびれたり・・・・・
電極に触らなくても、高電圧だと2〜3センチ離れていても、電気の方から火花になって飛びついてきます。

有るとき先生がブラウン管の画像実験の機材をどこか(大学?)から借りてきて、実験させてくれました。
なかなか面白くて、電子の流れや発光状況などが良く解り、大変ためになりました。本当に!
で・・・みんなチョット興奮気味だったのか、誤って一つを倒してしまったのです(私じゃないヨ)。
ヴォンと言って管は激しく破裂し、倒した少年はかばって手を出したので、腕が吹っ飛びはしませんが、
少し切り傷を。
間近で観ていた私は、避けることも無く、ただ呆然と顔面でガラスの破片をモロにキャッチしてしまいました。
顔面血みどろかと思いきや、傷一つ無く目も傷めることなく・・・・・無事現在も生きています。

ただ、先生は唖然として、「どうしようコレェ〜借り物やのにィ〜」と途方にくれていました。
やっぱり先生は大変です。ゴメンナサイ・・・・

3万ボルトに感電!・・・手が吸い付く!早く電源を切って〜・・・物理部での実験2
文化祭での発表の場。
ガラス板に地上の風景と空の様子を描き、アルミホイル(その頃もうあったのか?)のような金属箔を雲と地上の裏側に貼り付け、
雷の落ちる様子を再現しようと言う実験をしていました。
もう、コレだけで危なっかしい、ヤバイって感じですが・・・・・・

やはり、なかなか激しくは落雷しないので、雲と地上の間が広すぎだ(稲妻状になるように何か加工してはいましたが)という事になり、
電極を外して、コード(当然ビニールコーティングされてます)を手に持って、先端を適当に動かしてみようとしました。
両手に二本持ち、ポジションを決めて準備完了!・・・・・
スイッチ・オン----ヴゥウィ〜ン----!!!手が手がァ〜(上手く話せない)でで電源をきィきィ切ってェ〜 ホンの一瞬が長かった〜。

コードを握った手は吸い付けられるように握り締められ開かない。
腕は肩までしびれて、動かせない。
かろうじて、何とか声が出て、ろれつが回らないながらも助けを求められたので、友人がスイッチを切ってくれました。
一瞬の事で、他には誰も気付かなかったようです。
私の手のひらから腕までは、半分麻痺したような変な感じが一日続きました。

翌日には何も無かったように、平常どおり元気に実験してました。で・・・・・無事現在も生きています。
でも、電気にはくれぐれも注意しましょう。

「アーク灯」を作ろう・・・映写機の強烈な光源を!! 理論的には完成した?が発光せず
学校の映画会で使われた映写機つながりデス。
私は、理科工作と言われるジャンルが大好き少年でしたから、座右の書は『理科工作』という図鑑のようなハウツー本でした。
色んな理科の実験方法や、理科的な工作が詳しく解説されて載っていました。
あの本はどこへ行ったのでしょうか? 面白い本なのに行方不明です。

その中に『アーク灯』の作り方が載っていたのです。
炭素棒を二本用意(電池をばらして抜き出しました)して、先端を、尖ったのと窪んだのとを作ります。
それに、どうやったのか忘れましたが高電圧をかけると、放電してバチバチ〜と激しく光るはずでした。が・・・・・
上手くいかなかったのです。残念ながら。
色々試しましたが、そのうち、何だか危険を感じるようになり、止めてしまい・・・・・無事現在も生きています。

初めてのバーナーワーク・・・浮沈子を作る
浮沈子のおもちゃ?を初めて手にしたのは、小学生の頃だと思います。
夜店か、校門横に店を出していた怪しげな露天商かも知れませんが、遊んだ記憶があります。
試験管に水を一杯に入れ、中に、丸い頭を赤や黄色に塗られた小さなガラスの筒が上下します。
試験管の口は薄いゴムシートが輪ゴムで縛りつけられていて、それを指で押すとスーッと浮沈子が沈みます。
指を離すと、スーッと上ってきます。

ただそれだけでしたが、『理科工作』の本に、その原理と作り方が解説されていたので、興味が復活したわけです。
要は、指で押して試験管内の水圧を上げると浮沈子内の泡が小さくなり、浮力が減少して沈み、
指を離すと水圧が元に戻り、浮沈子内の泡も元の大きさに戻って浮き上がる、という簡単な原理でした。

原理は簡単でも、浮沈子が手に入らないと実験できません。
幸い『理科工作』には作り方が載っているではありませんか。
そこで、ブンゼンバーナーとガラス管を買ってもらい、ガラス管の先を少し溶かして膨らませ、浮沈子を作りました。
今思うと、コレがはじめてのバーナーワークでした。

それにしても、当時はどこでブンゼンバーナーやガラス管を手に入れたのでしょうか。
多分、理科実験用具も揃えている薬局のようなお店があったように思います。
そういえば、小学校の頃から、昆虫採集や標本作りの道具、顕微鏡で使うプレパラートなど等、色んな実験薬品などは、
手近にいろいろと入手していましたネェ〜?!
今、買ってきてって言われたら困ってしまいそうです。
・・・・・・デパート?ホームセンター?クラフトショップ?・・・・・・やっぱり専門店を探すしかないのでしょうか?
当時は、小中学生でも手軽に入手できたのにサッ!

自動潜航浮上式潜水艇が作品展に!・・・鯨形潜水艇の開発!?
真鍮の板を加工してハンダ付けし、マッコウクジラ形の胴体に、根元を兆番で動くようにしたゴム製の尻ビレと、胸ビレを取り付け、
マッコウクジラ形の潜水艇を、夏休みの宿題に作りました。

モーターの回転をカム等で前後動に変換し、それをシャフトで尻ビレに伝え左右にヒラヒラと動かします。
外圧で動くように仕掛けた注射器を内蔵し、深く潜ると水圧で注射器のポンプが伸び、水面に来るとバネで元に縮みます。
その動きをモーターの左右回転に変えて胸ビレに伝え、深く潜水したら上昇に、浮上したら潜水に切り替わるよう上下に動かします。
原理と構造はバッチリでした。
が・・・・ガタイが大きくなりすぎて、実際には浮力とつりあわず潜水は出来ませんでした。

でも、発想や稼働の仕組みなどを高く評価され、市の作品展に展示していただき、
「表彰状」も頂きました。
めでたし、めでたし、でした。
でも、あの記念すべきマッコウクジラ形潜水艇はどこに行ったのやら・・・・・・・・・いつの間にか行方不明で今に至ってます。
追伸、最近古い資料を整理していたら「表彰状」が出てきました。
母がしっかり保存していてくれたようです。

ワイングラスで音楽を奏でる?・・・テレビで見て感動、クリスタルガラスを知る

ガラスの風鈴・・・カランコロンというような軽やかな音色

合唱コンクール?に出る・・・歌は得意ではないのに臨時で合唱部員に

自転車で大転倒・・・アスファルトの穴!顔面からアスファルトに!傷跡は今も残る

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16〜19歳(高校生〜)の頃(昭和39〜42年)の思い出

東京オリンピックが開催されました・・・アベベの走りがやたら記憶に!

ライトサークル部活動・・・書物を点字に翻訳するクラブ活動、表彰もされる!

カヌーの製作・・・ブリキや角材でカヌーを手作り

理論的な純白に納得できず・・・たとえ1%でも混じり物があれば純白じゃない!

前夜祭は彼女を連れて・・・チェンジの無いフォークダンスで最後まで彼女と一緒

ラムネビンには強い?走りは遅いが何と一位に!・・・ラムネのみ競争で一着ゴール

反射望遠鏡のレンズ磨きを夢見る・・・ガラスを磨き込んで凹面の反射鏡を作ろう

アイススケート少年・・・インドアのスピードスケートに夢中

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20〜23歳(大学生)の頃(昭和43〜46年)の頃の思い出

リュックを背負って北海道一周の旅・・・20日間国鉄乗り放題、5〜6万円で一周できました

時給110円のアルバイト・・・少し安目でしたかね?

塩化コバルトのビン入り結晶を購入・・・手製の乾湿反応紙を作る

大阪万博が開催されました・・・大学の帰りにも立ち寄り、炎天下の行列で救急車が!

マンドリンクラブに少し在籍・・・一応コンサートにも出ました(1年生)

体育の単位はアイススケートの実習とスキー合宿で取得・・・授業は殆ど出ず(1年生)

スピードスケート部に少し在籍・・・試合には出なかった。大怪我の傷跡は今も残る(2年生)

ゼミでは各地のゼミ大会に参加・・・資料作りと発表の日々?(3〜4年生)

学生運動真っ盛り・・・バリケード、投石の雨、私服の捜査官、デモ、機動隊・・・の中!

家業がレンズ作りの友人がいました・・・たくさんのレンズはこうして磨くのか!

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歳を追うごとにガラスとは縁が無くなっていくようでしたが、50歳を目前に突然ガラスは蘇ってきました。
何かに取り憑かれたように・・・・・・そしてとんぼ玉にたどり着きました。


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